国家と善

樂さん長らくお待たせしました。

では例によって,樂さんのコメントを引用しつつ返信していきたいと思います。
引用文は青文字で。

これは確認です、先の「国家と善に関わる議論」で考えが一致したというのは、「国家はだいたい善い事が出来る」という点です。

せっかく意見が一致したのを蒸し返して悪いのですが,私の善に対する認識がまとまるとともに,「国家はだいたい善い事ができる」に関して,少し疑問が出てきました。
つまり,この認識はいわゆる相対的善にもとづいた考え方です。ある人にとっては善であるが,ある人にとっては善ではない。だから完全なる善を行うことは不可能と言うことですよね。しかし,私がイメージしている善は,相対的善ではなく,絶対的善なのかもしれないと最近思えてきました。誰かの善行によって損害を被る人がいるかもしれないが,善はあくまで善であるという認識です。ある善行を嫌がる人がいたとしてもその人はその行為が善行であると認めざるを得ない。そのような感じです。例えば,ルワンダの内戦。フツ族ツチ族を虐殺し,ツチ族は多くの難民を出しました。難民キャンプで飢えた子供にミルクをあげ病人を治療するのは善行だと思います。フツ族のボスはたぶん余計な事をしやがってとムカツクと思いますが,それが善行であるというのは頭の片隅で理解しているはずです。

李徴さんと僕とで考えが一致しているは、李徴さんの指摘の通り、「善行の定義」は「利他的なもの」という点で一致していると思います、これも確認です、

この考え方は一致しています。
ただ少し付け加えておくことがあります。
私は前回次のように述べ樂さんの主張を否定しました。
神に対して利他的だという論法ですね。しかし,これは「善行は利他的」という定義に合わせる為のこじつけとしか思えません。素直に考えて,利他的の他は行為を受ける人を指すものです。「ユダヤ人狩、魔女狩、十字軍」を善行にする為に樂さんはかなり無理をしているように感じます。ユダヤ人狩りにいたっては「神に対して利他的」というのは使えませんしね。もし行為を受ける人を無視して「神に対して利他的」などと言うものが使えるのであれば,ありとあらゆるものが善行になってしまいませんか?
行為の対象者だけでなく,第三者を持ち出して利他的とするのは間違いだと私は主張したわけです。しかし,様々な例を考えてみたところ,「善行」においては,神に対して利他的というのはあり得るかもしれないと思えてきました。ただ,私が持っているのは極めて日本的なイメージの神です。八百万の神とか自然とともに息づいている神などです。善行の例としては,お地蔵さんを掃除するとか,野山の保全をするなどが挙げられると思います。おそらく,行為の対象が人間以外の場合は,神に対して利他的というのがあり得るのかも知れません。
だから,結局,行為の対象者が人間である魔女狩りや十字軍などが善行ではあり得ないことには変わりがありません。ユダヤ人狩りにいたっては,行為の対象者はユダヤ人であり,ヒトラーゲルマン民族に対して利他的と言うことですから,さらに善行とはほど遠いです。


まず「善い事」をした人は、自分で「善い事をした」とは言わない、についてですが、これは確かにその通りだと思います、「私は善い事をした!」と威張っている人というのは、傍から見ていて、なんとなく、あんまり「善くない」、募金したからと言って、友人に言いふらして自慢している人を指して、私はあんまり「善い人」には思えない、実際にしている「行動」は「善い事(行為善)」なんだろうけど、なぜかあんまり「善い人」に思えない

ただ、善い事をしたと言わないから、善い事をしたと思っていない、というのは、これはやはり少し無理があるのではないかと思うのです、例えば「善い事をしよう」と思って、献血をしたとします、このときたとえ表立って「私は善い事をした!」と言いふらさなくとも、やはり「善い事をした」とは思う、と思います、「なにか善い事をしよう」と思い、募金した後に、「私のしたことは善い事だったのだろうか?」とは、まったく思わないことはないにせよ、やはり何か不自然な感じがします、やはりそのときは「善い事をした」と思うのではないかと思うのです、
(だから、「自分のした行為が善行かどうか、自分で判断しうると思うのです)


私と樂さんの話がかみ合わない最大の原因がここにあります。樂さんは「良い事」と「善」をほとんど同じ意味で使っているようです。私は両者がごっちゃにならないように「善い事」という表現もなるべく使わないように避けてきました。

善を行おうとして何らかの行為を行った人が心の中で「良い事」をしたと思うという点については同意します。しかし,「善」と「良い事」はイコールではないと私は思う。例えば,小学生が「良い事日記」を付けていたとしましょう。日記には「今日は○○をしました」と良い事がつづられていきます。なかには「今日は給食を全部食べられました」というのもあるかもしれない。樂さんの考え方だと,これもお母さんに対して利他的ということで善行に含まれてしまうかもしれませんね。しかし,実際にはそういったものは「善」に含めるわけにはいきません。

私は「善」はある意味聖域にあると思うのです。だから,自分で善を行ったなどとはおこがましくて言えないし,そう考える事さえはばかれる。他者からみて「善行」であったとしても「本人」は心の中でさえ「良い事をした」くらいにしか思わないのです。善行はもともと自分の行為を評価する言葉ではないというのが私の考え方です。本物の聖人は果たして心の中で「私は聖人だ」なんて思っているでしょうか。それと同じ事です。

なぜか?、なぜ自分は「善い事をした」と思っても、わざわざ「善い事をした」と言いふらさないのか?

それは「善いことをすることが、自分に課せられた『義務』だと思っている」からだと思います、

善い事をすることが「義務」なのだから、善い事をすることが「当たり前」なのであり、わざわざ他人に言いふらすこともない、募金をするのは当然の事であり、献血をすることが当然のことなのだから、わざわざ他人に言いふらしたりすることはない、ただ「善い事をする」という「義務」を果たすのみ、


なぜ,言いふらさないのか。
●第1に,自分では善を行ったと判断できないから。
●第2に,善行は自らアピールするような性質のものではないから。

「善行」を「義務」と考えているという説には条件付きで同意します。それは「義務」の意味によります。「○○しなければならない」「納税は国民の義務である」といったような,他者からその行為を強いられるようなニュアンスを持つ「義務」ではなく,その字のごとく,「義に基づく当然の務め」というニュアンスであるならば納得です。

とりあえずここで李徴さんと僕との現時点での考え方の違いです、

まず「善い人」は自分で「善い事をした」とは言わない、というのはその通りだと思います、これは賛成です

ただ、「行為の主体者は評価に関わらない」というのは、現時点での私と考えの異なる所です、理由は、やはり困っている人を助けたり、募金をしたりした時は、自然と素朴に「善い事をした」と思うからです、


これについては先に述べたように,自ら「良い事」をしたと評価する事はできても,自ら「善」を行ったと評価する事はできないというのが私の考え方です。私は「善」に特別な意味を持たせているのです。「善」=「良い事」ではないのです。

親が子にアイスクリームを買ってあげることが善行と言えるかどうか、これはまったくその親子に関わりの無い人からしてみれば、「善行」とは言いがたい、ある意味「当然のこと」をしたまでであって、しかもその行為はむしろ「利他的」と言うより「利己的」な感じすらします、しかしです、その親子となんらかの関わりがある人からしてみれば、例えば自分に親しい親子の話だったら少し話しが変わってきます、自分に親しい親子の親が、子を大切にしていたら、それは「いい親」と普通に呼ばれます、このときの「いい親」の「いい」が「善い」のことを指すのかは、断定できないにせよ、それでもなんらかの「善さ」は含んでいると思います、また「親が子にアイスクリームを買ってあげるという事態」ですが、その親子という集団内では、「善い事」という価値を帯びていると思います、ただその親子以外の無関係な集団からしてみれば、その親子は単に利己的な行動をしたようにしか見えません、

この部分でもやはり樂さんは「良い事」=「善い事」=「善」と考えているような気がします。この点が私とは大きく違います。

これは国という単位で論ずると分かりやすくなります、例えば未来研、確か未来研という集団は現在は「日本の未来のため」に活動している面が強いと思います、そして「日本の未来のために」活動している未来研は、日本という集団内では「善い集団」という価値を帯びます、なぜならば「未来研」という集団が、日本という集団に対して「利他的」な活動をしているからです、しかし諸外国の視点からしてみれば、単に「国益を追求しているだけ」に見えます、つまり「利己的」な活動をしているように判断されます、未来研という集団は日本という集団内では「善い」という価値を帯びるのに対して、諸外国からしてみれば「当然のこと」をしているようにしか見えないのです、

この部分からさらに私と樂さんの考え方の違いがはっきりしてきました。樂さんは相対的善をイメージし,私は絶対的善をイメージしているようです。樂さんのイメージしている善は相対的善であるがゆえに,限りなく「良」に近いわけです。ある集団における善は別の集団では悪になり得るというのが樂さんの考えている善。その善によって,集団により損得は生まれるが,どの集団でも善と認識される事には変わりがないというのが私の考えている善。


まず上の私の話に対しての突っ込みからですが、上の話を考慮したとしても「親が子にアイスクリームを買ってあげるという事態」がその親と子の集団内で善行かどうかは、やはり疑問符の残るところです、たしかに子は親を「いい親」とは思うかもしれない、しかし当然のことをしたまでと言えば、そうも言える、もっと言えば「親が子にご飯を食べさせることは善行か?」こうなって来ると問題点があらわになります、上の話を考慮してもとても善行とは言いがたい、なぜならば親が子にご飯を食べさせることは「当然のこと」なのだから、

この指摘を受けて言えることは、たとえ利他的な行為であっても、社会的に「義務」とされていることは、善行にはならないということです、現在の日本の社会規範では、親が子にご飯を食べさせることは法的にも社会通念的にも「義務」とされているから、たとえ親が利他意思に基づいて子供にご飯を食べさせても善行にはならないということです、


なるほど,「社会的に義務とされている事は善行にはならない」ですか。善行の定義の1つとして使えそうです。「善行」はそもそも社会から,つまり他者から強いられてやるものではなく自発的にやるものですから,社会的な義務は善行にならないのは当然の事でしょう。

このことから、ある利他的行為が善行となるための条件が導き出されます、

「善行とは不完全義務でなければならない」

例えば上の話ですが、親が子にご飯を食べさせることは、「親の義務」です、しかし、例えば募金は義務ではありません、しかしある行為が「善行」であるためには、「善い事をすることは、自分の義務である」という意思に支えられていなければなりません、簡略すれば「善行義務の意思」、社会的には義務ではないが、内面の義務(善行義務の意思)にささえられた行動、これこそ善行が善行であるための条件ではないでしょうか、内面の義務に基づいた行為であれ、社会的には「義務であってはならない」いわば「不完全な義務」です、つまり善行とは不完全義務でなければならない、そして「不完全な義務」だから、たとえその行為をしなくとも、非難されることは無いはずです、募金しなかったからといってもし非難されるのであれば、それはもはや社会通念的にはその人に課せられた「義務」となってしまっています、


ここの部分はかなり難しい。不完全義務というネーミングも難しいし,その内容も難しい。「社会的な義務」というのはよくわかるのですが,「自分の義務」というがかなりわかりにくい。「義務」という言葉からは何らかの強制性を感じ取る事ができます。「社会的な義務」の場合は強制しているのは社会です。これはわかりやすい。では,「自分の義務」の方はどうか?一体誰が強制しているのか。自分で自分を強制しているのか,それとも神から与えられた天命のようなイメージか。「自分の義務」という言葉にはとらえどころがありません。その性質の異なる両者をいっしょくたにして善行は「不完全義務」と定義してしまうことにはどうも引っかかります。

いずれにしろ「善行」に「義務」という言葉を使う事に違和感があります。「善行」は強制されるものではなく自発的な行為ですから。「善」は義務だから行うのではなく,人としてそうあるべきだと思うからこそ行うのではないでしょうか。

しかしながら、この「不完全義務」と「社会通念的義務(法的には義務でなくとも、社会的にしなければならないこと、例えばあいさつとか、お歳暮とか、年賀状とか)」との境はあいまいで、判断しにくい状況というのはあります、例えば、河で溺れている赤の他人を自分の命の危険を顧みずに助けることは「不完全義務」であり、「善行義務の意思」に基づいて溺れている人を助けたならば、「善行」となりまず、しかし、もし自分の命が危険にさらされるから、助けるのをためらったとします、この場合非難はされないかもしれません、しかし、その溺れている赤の他人が、ギャラリーが何人か見ている中で、自分に助けを求めてきたときどうなるか?この場合、もし助けるのをためらったりしたら、場合によっては他のギャラリーに非難されてしまうかもしれません、

こういった「不完全義務」と「社会通念義務」との限界状況というものは存在します、しかし「不完全義務」と「社会通念義務」との区分はかなりの場面で「善行」かそうでないかを判断するのに有効だと思います、


つまり,次のようにまとめる事ができますね。

1.不完全義務=自分の義務
2.社会的義務?成文法
          ?慣習法=社会通念的義務 

このうち,社会的にはなんら強要されないが自分では義務だと思っているのが不完全義務で,法的な束縛はないが社会的には義務とみなされているのが社会通念的義務であり,この両者の境が曖昧だという事ですね。

何だかすごくややこしくなってきましたが,1つ確認しておきたい事があります。

善行は「自分の義務」だとの思いでなされるという説をとりあえず受け入れるとしても,「自分の義務」だとの思いでなされる行為が全て善行になるとは限らないという点に注意が必要です。「不完全義務」でなされる行為が全て善行だとの認識で議論をするとどんどん話は混乱していくでしょう。つまり,「不完全義務」か「社会通念義務」かで善行を判断するのは少々無理があります。


では上の話を踏まえつつ、「善を追求する集団」についての議論に入りたいと思います、

まずこの議論の発端をふりかえり、私の当初から一貫しているこの議論の目的を話します、それを踏まえつつ議論がどのように食い違っているのか検討し、その食い違いを確認して行きたいと思います、正直言うと李徴さんと僕はそんなに対立したことを言っていないかもしれない、と実は思っています、

まずこの議論を通じて私の一番言いたい事は、「善い事をしようとすること」が危険だというわけではありません、『自分が正しいと思い込むことが危険』ということです、この確認はとても重要だと思います、おそらくこれは李徴さんも同意して下さるのではないかと思っています、この『自分が正しいと思い込むことの危険性』、これを訴えることが私の目的です


『自分が正しいと思い込む事は危険』に関してはもちろん同意します。これに関しては私はよくフリートークで戦ってますから(笑)これを踏まえて,私は『善を追求する』事は『自分が正しいと思い込む』事にはならないと認識しているわけです。

『自分が正しいと思い込む事の危険性』を訴える事が目的ですか。『善を追求する国家は危険だ』とと訴える事が目的ではないのですね。国家と善にはさほど興味はなく,そちらを念頭に置いて議論を進めていたとしたら話がかみ合わないわけです。

そして「ユダヤ人狩、魔女狩、十字軍」ですが、宗教的な理由もあり、人種論的な理由もありますが、いずれもその行為をした者は、「自分は正しい」という思い込みの基で大量殺人という行為に至ったと思います、前に李徴さんは魔女狩、十字軍は「真理は我にあり」という思想に基づいてなされた行為だ、というような指摘をして下さいましたが、「真理は我にある」のだったら、少なくとも「自分は正しい」と思って行動しているはずだと思います、

ユダヤ人狩、魔女狩、十字軍、これらの行為は「自分は正しい」という思い込みに基づいて行われた」これについて李徴さんの認識はどうでしょうか?


「善」とは関係がありませんが,「自分は正しい」という思い込みはあったと思いますよ。でも,ちょっとした疑問や後ろめたさなどもときどき湧いてきた事でしょうね。本当に正しいのだろうかと。そして,そんな不安を払拭するためにより攻撃的になり,敵を悪者に仕立てていくのです。



まず「ユダヤ人狩、魔女狩、十字軍」のどの辺りが利他的なのか?

これは上の「集団の単位と善に関する話」に基づいています、例えば、人種論が正しいと思っている集団があります、そしてユダヤ人狩をする集団は人種論を正しいと思っている集団に含まれています、人種論を正しいと思っている集団にとってユダヤ人というのは「悪」です、そしてユダヤ人狩をする集団はユダヤ人を排除します、このときユダヤ人狩をする集団は人種論を正しいと思っている集団に対して悪を排除するという「利他的」な行為をしたことになります、ただし、このユダヤ人狩をする集団の行為は、人種論を正しいと思っている集団以外の集団からは、利己的な行為をしたようにしか見えません、だから現代の日本の社会規範という観点から見れば、それはとうてい善い事とは言えません、しかし人種論を正しいと思っている集団内では、ユダヤ人狩をする集団は、悪を排除する善い集団という評価を受けます、


ユダヤ人狩りをする集団と人種論を正しいと思っている集団は違うという認識でしょうか。私は両者はかなりの部分重なると思いますが。となると,利他的ではなく利己的ではないですか?それから,私は上の方でも述べましたが,「善行」の定義における利他的は,あくまで行為の対象者に対して利他的であるべきだと思います。今回はその例外として「日本的な八百万の神」のような存在も入れてみましたが。そして,さらに条件を付けました。神に対して利他的な行為が善行として成立するためには,行為の対象が人間以外のものになると言う考え事です。まあ,これは私の思いつきのようなものなので参考くらいにしておいて下さい。また考えが変わる可能性もあります。

この構造は魔女狩や十字軍でも適用されます、魔女狩りをする集団は、魔女が存在すると信仰している人の集団内で善い事をしていますし、十字軍も当時のキリスト教社会内で善い事をしています、もちろん現代の日本の社会規範からしてみればどの行為も善行には見えません、

そして私は「善を追及する集団」を上の?「自分の所属する社会の害損の善悪観に従い、場合によっては積極的に悪を排除しようと試みる集団」という意味で捉えていたので、ユダヤ人狩をする集団などが、該当したのです、ただ?「積極的に弱者救済を試みる集団」を複合した定義となると話がややこしくなります、それはユダヤ人狩をする集団がユダヤ人を弱者とみなすかによって、矛盾が生じてくるからです、つまり?と?を複合した定義で、ユダヤ人を弱者とみなすと、ユダヤ人が「悪であり且つ弱者」となり、排除しつつ、救済しなければならないという矛盾にぶち当たります、だから私は?と?を区別しました、


ここで「善い事」と言い切ってしまうところに違和感を覚えます。「善い事」「正しい事」=「善」ですか?「正しい事」が果たして「善」なのか,そのあたりを考えてみる必要もありそうです。「正しい事」となれば,私も即座に相対的なイメージが湧きます。つまりある集団にとっては正しい事でも,ある集団にとっては間違っている事になりうるとか。でも,「善」に関してはそのようなイメージが湧かないのですよ。樂さんが言っているのは全て「正しい事」のような気がします。「善」ではなく。

「善を追求」というキーワードから、私が思いついたのは「自分が正しいという思い込み」です、だから「ユダヤ人狩、魔女狩、十字軍」のイメージが沸いて来ました、だから「悪を排除する」というイメージが浮かんで来るのです、もちろん李徴さん、いや多くの人間はそういうことをすぐさま連想しなかったかもしれませんが、しかし「善を追求する」という言葉の定義、これがやはり食い違いの一番の原因だと思います

樂さんのイメージでは「善」=「正しい事」なのでしょう。「正しい事」ならば,私も「正しいと思い込む事」に対し敏感になると思います。「正しい」って一体なんだ,あなたにとっては正しいかも知れないけれど,他の人にとっても正しいとは限らないよ,とか思いますから。「善」という言葉に対するイメージの違いが食い違いの原因となっているのでしょう。

逆に李徴さんに質問です、李徴さんは今回「善を追及する」という言葉をどのような意味で用いたのか、これを明確にすることでお互いの食い違いが晴れるような気がします、李徴さんの言う「善を追及する」という行為がどのような行為であるのか、教えていただけないでしょうか?
私は上の定義?のような意味で解釈していました。


定義?は「自分の所属する社会の害損の善悪観に従い、場合によっては積極的に悪を排除しようと試みる集団」ですね。私はこの定義の善悪観の部分に引っかかります。価値観と同レベルの話になっています。聖といえば邪,善といえば悪というような単純化も気になります。私のイメージしている「善」は悪を必要としない「善」です。

「正しい事」ではなく「善」を追求するというのがまさにポイント。善はある程度どのようなものかイメージされているものの,それを目指して実際に行動に移しても,その結果,それが善であったかどうかは自分では評価できません。自分で評価できるのは善に近づいたかどうかくらい。常にフィードバックが必要となるのです。

人間が例えば目の前のコップをつかもうとする時,目からの情報,腕からの情報などが絶えず脳に送られ,脳からは微調整の指示が神経を介して送られます。そして,このインパルスのやりとりは手がコップをつかむまで何度も繰り返されます。これがフィードバックです。善もまたこれに似ています。「正しい」とは違い,何度も何度も「善」かどうか自省が繰り返されるのです。

国家が行う善もこれと同じで,これが善だとはっきり言える行為はなかなか見つからないかも知れません。しかし,例えば,難民の救済などもそうですね。善だと思って,食べ物を援助していたら,難民がすっかりたかり体質になり自立できなくなるとか。そうなったら,また微調整すればいいわけです。先ずは産業や教育方面の援助を増やすとか。

私がイメージしている「善」は「正しい」とか「間違っている」とかそういう卑近なものではなく,また悪と相対的に論じられるような「善」でもないのです。相対的でなく,独立して存在し得る「善」。


「神に対して利他的」についてですが、「これはこじつけと見られる可能性はあるな」と思いつつ書いていました、なぜならば「神に対して善い事をする」という言葉を我々は日常で使わないし、もしかしたらこんなこと初めて聞くかもしれないからです、

しかし、私はあながち的外れなことを言っているわけでもないとは思うのです、祈りは誰に捧げられるのか?巡業は誰のために行われるのか?誰に忠実に生きるのか?これは「神という絶対者」もしくはそれにあたるもののためだと思います、これらの行為はその行為者からしてみれば「利己的」とは言い難い、宗教に敬虔であるとは、やはり「神に対して利他的」と、完全に正しいとは言い切れませんが、やはりそういう面があるのではないかと思います、

利他的の「他」が、人間でなければならない、という条件は少し狭い条件なのではないかと思います、「神に対して利他的な行為をする」というのはあまりピンと来ないかもしれませんが・・、


私も日本の八百万の神的な物に対しては「利他的」が通用するかもしれないと思いはじめています。しかし,キリスト教的な「神」はかなりイメージが違います。それは「善行」ではなく信仰に基づいた宗教的行為となるでしょう。

あと李徴さんの「神に対して利他的」などと言うものが使えるのであれば,ありとあらゆるものが善行になってしまいませんか?

についてですが、「ありとあらゆるものが善行になる」ということは無いと思います、それは神に対して利他的な行為というのは、神が定めた行為、もしくは教団の定めた狭義に沿ったものでなければならないし、またいくら神に対して利他的な行為をしたとしても、他の無関係な集団からしてみれば、ただの利己的な行為にしか見えないからです、


つまり,行為の対象者を無視して第三者に対して利他的な行為を善行としてしまうのはまずかろうという事です。行為の対象が物である場合は,神など第三者に対して利他的というのも通用すると思いますが。


以上,引用文に対する返信の形で書いてきたので,全体のバランスが少々悪いかも知れませんが,私の言わんとするところが伝われば幸いです。

※追記(5/24)
樂さんは「正義」と「善」の違いを明確に認識していますか?
ひょっとしたら,樂さんは「善」の中に「正義」を見ているのではないでしょうか。夜勤上がりにふと思いました。

私がもし「正義を目指す国家」と言っていたならば樂さんの反発はとても良く理解できます。

私は「善」には反対語は存在していないと思うのです。
「悪」が反対語のような気がしますが,「悪」の反対語はたぶん「正義」。

似たようなものに「神」があります。「神」の反対は「悪魔」と思ってしまいそうですが,たぶん「神」の反対はない。「悪魔」の反対はおそらく「天使」。

とまあ,こんなことをチャリンコに乗りつつ考えておりました。