『国家と善』の議論

樂さん,長いことお待たせしました。

最近脳味噌が疲れ気味で,SayClubは気分転換シフトにしておりました。
ぼちぼち,議論シフトも交えた活動に戻ります♪

さて,樂さんのレスに1つ1つ答える前に,改めて確認しておきたいことがあります。
前回も同じように提示しておきましたが,今回もしっかり提示しておきます。

李徴:もちろん国民の利益を最優先しなけりゃ国家を作っている意味はありませんが,国民の利益を保持しつつ「善」を追求する道もあるはず。「善」を追求する国家。面白くないですか。

樂:正直に申し上げますと、本気で「善」を追求している集団は遠目に見ているとかなり危険です

私は議論を始めた当初より,「善」について2人の間に何ら共通認識が得られていないことに気が付いていましたが,それが逆に面白いと思い,この議論を続けてきました。しかし,議論が発展するにつれ,さすがに「善」をある程度定義しておかないことにはにっちもさっちもいかなくなり,樂さんが定義を試みてくれたわけです。この定義は私もいろんな発見ができ,とても勉強になりました。さすが武闘派哲学者の樂さんです。

ただ,ここで1つ確認しておきたいことがあります。あの時,我々はお互いにどのような思いでそれぞれの発言を行ったのか,その当初の思いを忘れてはならないということです。議論を進めていくうちに見つかってきた材料を元に,あの時の発言はこういう意味だったのだと後付けするのはナンセンスです。ついこの間自分たちがした発言を古文書のように解読するのはばからしい。そうならないようにお互いに気を付けましょう。

樂さんと「国家と善」について議論をするのは非常に面白いけれど,ともすると,「なぜ議論が始まったのか」,その発端が解らなくなることがあります。「今は議論の発端に関わる議論をしている」「今は発端とは関係なく知的好奇心のおもむくままの発言をしている」といった感じで,その都度議論の位置づけを確認していきたいと考えています。

上記のことを踏まえて,議論を続けていきましょう。

「国家と善についての議論」はお互いの主張が一致したと思います、ありがとうございました、

一致したというのは,
国家にできるのは「だいたい善い事」である
という認識の一致ですね。

「損得利害と善の本質に関わる議論?」

これは李徴さんの

○「利他的な行為」,つまり「他人を利する行為」=「善」については「利」の内容いかんでは納得できない局面があるかと思います。


例えば,他者をお金持ちにする行為とかお茶を淹れてあげるなどの行為は善とは言えないといったところです。また,愛する人を利する行為は「善」というよりも「愛」というカテゴリーに入れた方が適切かも知れません。

○「嬉しい」とか「前向きに生きる」とか「希望を持つ」とか「気持ちが良い」とか,全て「利」と考えて良いのかどうか,そのあたりの判断はとりあえず保留にしておきたいと思います。

これを保留にしたのには深い意味はありません。つまり,「利」の意味について少し引っかかったのです。普通「利」というと「御利益がある」とか「利潤」とか,プラスマイナスゼロからプラスに上がるくらいのイメージがあります。そして何だか即物的なイメージも。つまり「幸せ」など精神的なものも「利」の範疇に入れていいものなのか気になったのです。
ただ,ここで「利」の定義にまで話が及ぶと収拾がつかなくなるので保留としたのです。

○他者が得をすることをもってして,その人の行った行為もまた損得に従ったものだということができるでしょうか。Aさん自身が得をしようとして行った行為かどうかが問題ではないでしょうか。「善」は他者に「得」「利」をもたらすこともありますが,やはり別個に考えるべきです。

最後の「別個に考えるべきです」というのは深く考えないで下さい。私の表現ミス。

という指摘を受けて、「善い行為」とはどういう行為なのかをもう少し掘り下げて、尚且つお互い納得のいく「善行の定義」を模索しようというものです、

ここまでお互いに納得している部分を確認させてください。話がややこしくなっている場合はこの確認作業が非常に重要になってきます。確認作業を怠ると,お互いに同じ意見なのに,とりあえず反論し合うという状態になる恐れがあります。朝まで生テレビ状態です。

で,「善行の定義」ですが,「利他的なもの」という点では一致していると思いますがいかが?

これは李徴さんの発言からの推測ですが、善行=他者の利 としたら、「善い事をしようという意思に基づいた行動だが、結果的に他者の利につながらなかった行為が、善という価値を帯びなくなってしまう」というような懸念を感じます、実際私は前回の「損得利害と善の本質に関わる議論」では、「善い事をしようという意思」に関しては触れませんでした、今回は「善い事をしようという意思」などを踏まえて話をすすめていきたいと思います

これは何度も言っているように,もともと「善行」というものは自ら「善」を行ったと認識するようなものではないと私は考えています。あくまで「善を希求する」だけであり,「善行」を求めて行った行為の結果についてそれが善であるかどうかは本人は関知しない。

ここで,もう一つの定義を思いつきました。
「善」は利他的であるという共通認識が得られていますが,次の定義はいかがでしょう。
善は他者が評価するもの。
私は善に対しそのようなイメージを持っています。

したがって,「結果的に他者の利につながらなかった行為が、善という価値を帯びなくなってしまう」のではと樂さんは懸念を感じていますが,善を行おうという当人にとってはそれはあまり関係ない。善を行おうとして逆に害を与えたり何の効果もなかった場合は反省をしたり計画の練り直しはするでしょうが,それが善かどうかという判断は行為の主体者が為すべきものではないと私は考えます。また,他者が評価するのであるから,結果として他者の利につながらなかったとしても,その行為が「善」と評価されることはあり得るのです。

私もまだ消化し切れていませんが,前にも少し触れたように「善行」を成立させるには「謙虚」が必要になってくると思います。だから,決して自分では「善」を行ったとは言わない。心の中では少しくらい思うかも知れませんけどね。

まず「善行とは利他的な行為のことである」という定義に使われている「利」ですが、「嬉しくなること」「物事に対して前向きになること」「物事に対して希望を持つこと」「気持ちがよいということ」を含みますが、第一義に「幸福になること」が最重要です、例えば他者を陥れようとして「物事に対して前向きになる」ようにおだてる、例えばテストの前に、相手をおだてて調子にのせて、あまり勉強しないようにするといった行為は、「物事に対して前向きになる」には該当しますが、相手を幸福にしようと意図した行為でないので「善行」とは言えません、

「利」についてはいろんな解釈が可能でしょうが,「幸福になること」が最重要であると言うことを樂さんと私の共通認識として話を進めましょう。これはここの議論においてだけ有効ということで。

そしてここで言われている「利」は「幸福になること」を指していますが、これは定義です、日常で「利」という言葉は狭い意味から広い意味までさまざまな場面で使われていますが、今回「利他的」という言葉で使われているような「利」は「幸福になること」を指しています、

はい,一般に「利」は「利益」とか「役立つこと」のように物質的に得をするような場面で用いられることが多いですが,ここでは精神的な意味を含めて「幸福になること」と定義して話を進めましょう。

そして「善意思」とは「利他的な意思」ということです、つまり「他者を幸福にしようという意思」のことです、また逆に「悪意思」は「害他的な意思」つまり「他者を不幸にしようという意思」ということになります、

了解です。

すいません。ここで,すでに↑で挙げた樂さんのコメントを再録させてください。
たびたび,「今,何の話してたんだっけ?」という状態に陥るので,水先案内人代わりです。

「善い行為」とはどういう行為なのかをもう少し掘り下げて、尚且つお互い納得のいく「善行の定義」を模索しよう

今は,「善行とは何か」を模索しているところですね。

そして「利己意思」についても触れておきます、上の「利」の定義で行くと「己を幸福にしようという意思」ということになりますが、重要なのが「利他意思によって他者の利が実現した場合における道徳的満足感を含まない」ということです、つまり「善い事をしたときの気持ちよさ」は、自分の「利」に含まれないということです、もし「善い事をしたときの気持ちよさ(道徳的満足感)」を己の利とすると、利他意思による行為というものが、利己意思による行為にふくまれてしまい、「利他意思」「利己意思」という区分が無意味になってしまいますし、「人間は利己的な行為しか出来ない」ということになってしまいます、「道徳的満足感」を「己の利」に含むと、利他的な行為というものが消滅してしまいます、「人間は利己的な行為しか出来ない」というのは、ある意味では当たっているとは思いますが、今回の議論では「利他」「利己」の区分が重要になってくるので、「道徳的満足感を己の利に含まない」として話を進めていきます

了解です。


では、意思と行為と、善悪に関して表を作ってみました