掲示板フリートーク♯1087の再掲です

☆トト神☆誠☆さんの立てたスレッドと趣旨が微妙に異なるかも知れませんが,私が以前ODNフォーラムで書いた物を紹介させて下さい。
ちょっと手直ししました。
私がかつてこれを書いたのは,ODNフォーラムにあまりにも辛口キャラが増えたためです。彼らは,フレンドリーな会話を挨拶大会だと罵り,本音は最高だという信念のもと,多くの人を傷つけていったのです。


一,ネットにおける困ったチャン

次のサイトは参考になります。
精神科医YASU-QのHP】
http://www2f.biglobe.ne.jp/~yasuq/index_j.htm


【場と人について】
私は,ネットコミュニティに参加している人はそれぞれ意思を持ったリアルな存在であり,コミュニティという場はバーチャルな存在であると考えています。コミュニティはモニタ上にある,サーバー上にあるとの考え方もできるかも知れませんが,参加者がそれぞれの頭の中で構築しているイメージの世界と考えた方がより現実に近いような気がします。つまり参加者はリアルな存在であり,その人はその人でしかないけれど,場の方はバーチャルな存在で,人によってそのイメージしている姿は異なるのです。ところが,「場」にリアリティを感じ,「人」にリアリティを感じない,つまり,「場」に執着し,「人」の心に無頓着な人がかなりいるようです。私はこれがネットコミュニティで生じる軋轢の原因の一つであると考えています。

★SayClubの場合は,管理体制がかなりしっかりしているので,他のコミュニティに比べれば,とても優れた環境を保持しているといえます。

【ネットでの発言】
ネットでの発言では,なるべく相手が不快になることを言わない方がよいでしょう。しかし,当然,「じゃあ,相手が間違っていることをしていたらどうするんだ!」というツッコミが入るかもしれません。そんな場合には,できるだけ言葉を選んで「注意」「アドバイス」をすれば何の問題もないと私は考えます。

逆に,不快な発言(誹謗中傷暴言など)に遭遇した場合には,どうしたらいいでしょう。基本的には無視というのがネット界の常識です。

★Sayの場合はSayPoliceという制度があるのでそちらに通報するという方法もありますね。

【不快な発言(誹謗中傷暴言など)をする人と交流した場合のデメリット】
1.レスをすることで彼のキャラを固定させてしまう恐れがあります。彼は引くに引けなくなります(負のコミュニケーションの確立)。

2.彼の発言の一部でも評価すれば,彼はすべての発言に自信を持つ可能性があります。また,彼に誹謗中傷されている人や第三者はあなたに不信感を持ちます。

3.自信をもった彼は誹謗中傷を続けます。次に狙われるのはお友達かも知れません。そんな時,あなたはお友達と彼の間で板挟みにあうかも知れません。

4.誹謗中傷する人と普通に会話することにより,新たなる誹謗中傷キャラを生みだし,引き寄せます(割れ窓理論)。

5.交流により,誹謗中傷する人は自分の「場」を見つけたと認識し,その結果,その場の雰囲気が殺伐としてきます。

【罪を憎んで人を憎まず】
ネットで激しい口調で人を罵る人も,現実ではとっても温厚で,優しい人かも知れません。コメントだけを見てると不快に思える人でも,実際に会ったら友人になれるかも知れません。また,ネットコミュニティでは「口は悪いけど,本当はいい人」などの言葉をよく見かけます。でも「本当はいい人」でもネットで罵詈雑言では話しになりません。
「文(言)は人なり」ということから,どんなに口が悪くても,その真意は分かる人には分かると考える人がいるかも知れません。しかし,わざわざ間口を狭める必要はないのではないのでしょうか。言葉は相手に自分の気持ちを伝えるための道具です。できるだけ相手に伝わりやすい言葉を選んで用いるべきです。わざわざ,人を罵る言葉を散りばめ,伝達を阻害するのは非常にもったいない話しです。


二,直言?辛口?悪口?批判?

【本音で語ると言うこと】
賑やかなコミュニティはとても楽しい。しかし,賑やかであるべき,と考え始めると,とたんに窮屈になってきます。
個性的なコメントを求めたり,本音で語ることを求めるのも同様です。私は本音で語ることを否定しないし,本音で語ることの素晴らしさも理解しているつもりですが,「本音で語るべき」だとは思いません。
そもそも何が本音なのか,本人だってよく分からない。

ときに「本音」というものを過度に理想化し,思ったことをズバズバ言うことは素晴らしいことだと勘違いしている人を見かけます。彼は,フレンドリーな会話を本音とは認めません。

本音に夢を抱くのもほどほどに。

【「批判」と「傷つく」ということ】
さて,『表現の自由を脅すもの』という本があります。原著者は,アメリカのジャーナリストであるジョナサン・ローチ氏,翻訳は飯坂良明氏。角川選書
彼の主張をいくつか引用してみましょう。
★「気持ちを傷つけられないでいる権利なんてものはないし、批判は暴力とは同じではないということを人々に思い起こさせなければならないなんて、全く残念なことである。」
★「心を傷つけられた人たちが、相手にその間違いを分からせるとか、びくともしないくらいに面の皮を厚くしようとするのでなしに、相手を黙らせるとか、追い出すとか、首にすることに懸命になるようだったら、いつものように、彼らにもっと成長しなさいと言ってやるべきだろう。」
★「気持ちを傷つけられない権利というものが確立されると、より礼儀正しい文化に至るどころか、誰が誰にとって不愉快だとか、誰がより多く傷つけられていると主張することができるかをめぐって、声高な泥仕合がいっばいおきるだろう。」
★「傷つけられたといって騒ぎを起こすことで何かを得ることができると知ったら、プロの当たり屋商売に転じるであろう。」
★「自由社会は、我々はすべて間違うことがありうるということを前提に成り立っている。我々は自分をも含めて、いかなる人も批判の埒外に置くことがあってはならないということである。たとえ「間違い」が人を傷つけ、動転させることがあるとしても、人が間違うことを許さなければならないのである。」

また,アサーティブというコミュニケーション理論があります。
アサーティブジャパン(http://www.assertive.org/)の説明によると,

「アサーティブネス(Assertiveness)」の訳語は、「自己主張すること」。 
しかし、アサーティブであることは、自分の意見を押し通すことではありません。自分の要求や意見を、相手の権利を侵害することなく、誠実に、率直に、対等に表現することを意味します。

とのことです。

アサーティブネスは相手を傷つけずに自己主張をすることを提唱し,ローチ氏は相手が傷つくことを恐れていては真実の追究はできず,表現の自由は封殺され,真の対話社会は形成されないと主張します。一見対立する2つの考え方ではありますが,よくよく考えてみると,両者の対立はそれほど大きくないことに気が付きます。アサーティブネスは方法論,ローチ氏の主張は理念です。したがって,私は両者の考え方に納得できます。状況によっては相手が傷つこうとも言わなければならないことがあるだろうし,逆に,表現方法を吟味することにより相手を傷つけずに済ますことだってできるのです。

人は批判されると,自分の人格までも否定されたような気持ちになることがあります。これは,批判というものに日本人が慣れていないせいかもしれません。あるいは聖徳太子の「和をもって貴しと為す」の呪縛かもしれない。
人格攻撃は問題外ですが,それなりに意味を持った批判ならば,しっかりと受けとめたいものです。

私の場合,批判されると次のような思考が働きます。
1.批判のポイントは何か?
2.批判者は何を目的として批判しているのか?
3.対応するに値する批判か否か?

なかには,反論なくして真のコミュニケーションは築けないと考え,無理して反対意見を出す人もいるようです。でも,これは,ただの仲良しグループじゃないことを証明するための免罪符のようなもので,かなり不自然さを感じます。もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかな。



とまあ,以上のようなことを書きました。
私は直接彼らに話しかけることはせず,こういったコメントを書くことにより間接的に思いを伝えようと試みていました。
で,結局どうなったかというと,ODNが重荷に感じたのか,
フォーラムは閉鎖されてしまいました。
現在は他の業者に委託した使い勝手のあまりよろしくない掲示板が設置されています。
過度な自由を求めたために逆に不自由になっていく。皮肉なことです。
☆トト神☆誠☆さんが主張するように自己管理というのは非常に大切なことです。