荒らしもいる楽しい掲示板

評論家の呉智英氏は

『差別もある明るい社会』

と言った。

呉智英氏のウィキペディアではこれを
「差別があると暗い社会であるという検証抜きのドグマへの痛烈な批判である。」
と説明している。

さて,掲示板である。

『荒らしもいる楽しい掲示板』は『荒らしがいると楽しくない掲示板になるという検証抜きのドグマへの痛烈な批判である。』と言えるか否か。



まず,楽しいのは誰か?
「社会」の場合は明るいや暗いと感じる主体はもちろんその社会に参加している人である。ところが,掲示板の場合は少し違う。つまり,テレビの視聴者と同じく,見ている人もまた「楽しい掲示板」と感じる主体となり得るのである。

掲示板に参加している人が荒らしがいれば楽しいと感じるのであれば,それもまたよしだが,見ている人を楽しませるために荒らしの存在を肯定的にとらえる必要があろうか?私はそうは思わない。掲示板においても主体はあくまで参加者であって欲しい。もちろん見ているだけの人だってその気になればいつでも主体となり得る。

楽しければそれでいい。掲示板は楽しくなければならない。
掲示板についてそのように考えている人もいるようだが,
私はこの考え方は断固否定したい。
掲示板は結果として楽しくなればそれに越したことはないが,
無理矢理楽しくする必要はない。
また一体誰が楽しいのか,そのあたりも考える必要がある。