戸塚校長と体罰

さらに体罰について考えてみたい。

戸塚校長は体罰は質的には元もと良い事であり,あとは量の問題があるだけだと自説を開陳しております。

非常に解りやすいんだけど,私としてはどうもすっきりしない部分がある。
で,いつものように夜勤に行く途中,チャリンコに乗りながら考えた。

結局出てきた結論は,体罰とは薬みたいなもの。

薬は具体的な処方の仕方によっては,病気を治すこともあれば逆に健康を害することもある。そこには本質的な「善悪」などというものはなく,用いた結果が「良」だったり「悪」だったりするだけ。

では,結果を「良」に持って行く為にはどうすべきか。薬の場合は,専門の大学で基礎的な薬学理論を学び,さらに具体的な薬物を前に薬効を学んでいきます。薬を処方する権利を得たあとは,臨床において実践経験を積みます。それら一連の階梯を経て,初めて患者を治療することができるようになります。

臨床では,教科書には載っていないような複雑な症例とぶつかることもあるでしょう。そんなとき,患者を診ずして,風邪なら○○,頭痛なら○○と機械的に処方する医者もいれば,患者の体質・既往歴・主訴以外の症状など細かい部分も念頭に置きながら処方する医者もいます。

さて,体罰です。
体罰もまた,その結果が「良」となるか「悪」となるかはそれを行使する者の力量にかかっています。薬のことを何にも知らない人が薬を処方してはいけないのと同様,子供のこと,教育のことを何にも知らない人が体罰を行使するのはやはり大きな問題があります。

それから,社会環境についても考える必要があるでしょう。体罰を許容する社会と体罰を許容しない社会とでは,体罰の効果は大きく異なってくるはずです。
「悪いことをしたら殴られる」という感覚が子供にない社会,体罰は悪いことだと認識する親御さんが多い社会では,教育の一手段として体罰を用いることは非常に困難だし,その効果もほとんど得られない可能性があります。

社会のバックアップがない状況では教育者は体罰という手段を用いることはとても難しい。また,力量不足の人が体罰という手段を用いることの問題もあります。劇薬が重病を治せるのと同様,使い方によっては体罰も教育において大きな成果を得られるでしょうが,それは様々な条件が揃った上でのことであり,今の社会においては汎用性はあまり無いのかも知れません。