樂さんに答えますその2

では,樂さんからの要望もあったことだし,これからの議論はこちら「日記」の方で行うことにします。マイフレ限定の方に移した理由は想像にお任せします。こちらでも特に問題はありません。

では,例によって,樂さんのコメントを青文字で表示し,それに対する返答という形で議論を続けていきたいと思います。ちなみに樂さんのコメントはノーカットで再録してあります。


(1)僕の中での李徴さんのイメージはさしずめ諸葛孔明です、孔明自身はさしずめ戦闘が強いというわけではないけど、策略に関しては右に出るものがいないという感じです、しかも本当の意味で大人だと思います、

いつか李徴さんと議論することがあるんじゃないかなぁ、と思っていましたけど、実現しました、どうぞよろしくお願いします、

それでは考えを書かせて頂きます、


★過分なるお褒めの言葉ありがとうございます。戦闘が強いというわけでもないというのが不本意ですが(笑)
私は己の「策」におぼれている策士を冷ややかに見ているタイプかも。
やはり忍者などのスパイ系が近いかと(^^ゞ


(2)前提「善いこととは、主観的に善いことである」
つまり具体的に何が善いことかという問いに対しては、人それぞれということです、「何が善いことかは自分自身で定義する」と言い換えても差し支えありません、これは「善」という価値判断を主体に委ねるということです、逆に主体無しに「善」という価値判断はありえないという立場です、砕けて言えば何が善いことかを判断するのは「私」だということです、絶対的、客観的な「善い行為」というのは存在せず、何が善いことかを判断するのは、いつでも「私」ということです、樂には樂の「善」があり、李徴さんには李徴さんの「善」がある、もちろんお互いの「善」の意味そのものは同じ「善」なのですが、どういった行為が「善」という価値を帯びるかは人それぞれということです、


★この部分の樂さんの主張を一言でまとめるならば「善の定義は人によって違う」くらいになりますか。何を善と考えるかは人によって違う。さらにいうと,1人の人間でも状況によって善の定義が変わる可能性もありますね。20歳の頃考えていた善と50歳になって考える善が違ってもおかしくはない。


(3)そして、例えばAという行為を「善」と定義する人が集まり集団を形成したとする、すると「Aという行為は善である」ということが、その集団内に於いて普遍的な真理となる、例えば、「マザーテレサのしたことは善いことだ」という人が集まり集団となると、その集団の中では「マザーテレサのしたことは善いことだ」ということが普遍性をもつことになります、

上のことを踏まえて議論の続きを答えて行きたいと思います、

まず私の私的な感情を述べさせて頂きますと、安易に「善いことをしよう!」とか言う人間が気に食わない、道楽感覚でボランティアとかしている人間が気に食わない、これが私の感情です、だから李徴さんの書き込みに対して私は苛烈に反応しました、この点において李徴さんの「根本のあるのは樂さんの好悪だと思います」というのは事実です、でも李徴さんに関しては、私は好感を持っています、なぜならばなかなかの曲者だからです(笑)


★この部分は「善の定義を共有する集団の形成」とでもまとめましょうか。ただ,注意しておかなければならないのは,その集団は果たして善に対する定義を共有していたから集団を形成したのかという点。その集団において果たして善の定義を共有することにいかほどの価値があるのか。そのあたりは集団の性質によって違ってくる可能性があります。

このあたりのことも踏まえて,議論を続けていきたいと思います。

まず気にくわないという感情があり,その後様々な材料を集めて,自分のその思いにはそれなりの理由があるのだと理論で固めていくわけですね。

私は確かにくせ者ですが,とっても無防備です(笑)
ネットではすきだらけの言説を垂れ流しております♪


(4)しかし、アウシュビッツのことに関して言えば、私は事実を述べたと自負します、現代の日本の社会規範からはイメージしにくいとは思いますが、ユダヤ人をアウシュビッツに送り込むことは、ナチ党員にしてみれば、祖国のための「善い行為」だったと思います、

例えば、台所にゴキブリが出現したら、私は躊躇無く殺してごみばこに捨てます、このときゴキブリを殺すのは、自分のためというのはもちろんですが、家族という社会全体の利益になることです、家族という社会のためになること、それはその社会内で「善いこと」という価値を帯びてもおかしくありません、逆にゴキブリを見過ごすことは悪いことです、


★ちょっとこのあたりから怪しくなってきました。「善」「善い行為」「善いこと」,全て「善」という漢字を用いていることから一見全て同じ意味のように見えますが,文脈によってはその意味は変わってきます。「善と悪」と「利と害」は同義でしょうか?
樂さんがここで言っている「善い行為」は単なる「利がある行為」に過ぎないと感じます。
これは私がイメージしている「善」とは異なります。
もし両者が同一であるならば,私が最初の日記で語った「国益も大事だが善を追求して欲しい」は意味不明になります。

ついでにアウシュビッツについても一言。
アウシュビッツという言葉が意味しているのはガス室でのユダヤ人殺戮です。当時のドイツ人は自分たちは優秀な民族でユダヤ人は害を為す民族と考えていた可能性はありますが,果たして,ガス室での殺戮まで容認していたのでしょうか。ましてや「善行」などと考えていたのでしょうか。私は現場レベルでも苦悩していた人は多いと思いますよ。

いずれにしろ,多くのドイツ人はユダヤ人排斥を「善なる行為」ではなく「道理にかなった行為」,つまり国益にかなった行為だと考えていたと私は思います。


(5)そしてユダヤ人狩りが行われていた当時、ドイツでは人種論が常識としてあったそうです、端的に言うと、ユダヤ人が祖国ドイツの害になっているという思想です、祖国の害を取り除く、これはその社会内で「善いこと」という価値を帯びても何の不思議もありません、もちろん現代の日本に生きる私からしてみれば、それはぜんぜん善いことではなく、悪いことなのですが、当時のナチ党員にしてみれば「善いこと」だったのだと思います、(ユダヤ人狩りという行為が、ナチ党員の社会では善いことという価値を帯びることが普遍的な真理となる)

「善を追求する」→「恐ろしい暴力」ここに明確な必然的因果関係があるか?

もちろんありません、そもそも善の追求と恐ろしい暴力とに必然的因果関係があれば、それは善としての普遍的価値をもつことが出来なくなると思います、ただ「善を追求する集団が暴走したら恐ろしいことになる」ということはわかってもらえたと思います、


ユダヤ人が祖国ドイツの害になっているという思想」
そう,悪ではなく害なのです。国益に反するというだけ。いや,国益というか民族益かな。いずれにしろ善悪の問題ではありません。

「善を追求する集団が暴走したら恐ろしいことになる」
これはこのまま受け入れるわけにはいきません。
「善を追求する集団が暴走したら恐ろしいことになることもある」ならばOK。
さらに,「善を追求する」はほかの言葉にも置き換え可能です。「国益を追求する」でも「悪を追求する」でも成立することでしょう。ことさら「善を追求する」集団を危険視するのはやはり樂さんの好みの問題です。


(6)中越地震のボランティア、マザーテレサが「善い」のは、我々の害になっていない、むしろ多くの人間に貢献しているという点が挙げられると思います、しかし、例えば、日本と北朝鮮が戦争をしていたとします、このとき中越地震が起こって、被災地でボランティアが活躍したとします、このとき北朝鮮サイドの人間からしてみれば、ボランティアが善いことをしているかどうかはかなり微妙だと思います、このとき、日本という社会にとって、中越地震ボランティアは「善いこと」という価値を帯びますが、北朝鮮という社会にとって中越地震ボランティアは「善いこと」という価値を帯びない、つまり何が言いたいのかといいますと、ボランティアという行為といえど、「普遍的な善いこと」にはならないということです、国境無き医師団も、マザーテレサも、中越地震ボランティアも、「善いこと」という価値を帯びるかどうかは、社会規範によって決定される、もっと言えば社会の損得利害に絡んで決定される、もしマザーテレサの行為で損をする社会があれば、その社会にとってマザーテレサは悪人なのです、

★この部分は私の文章の文脈の読み間違えだと思われます。
中越地震のボランティアやマザーテレサが善か悪かがポイントではなく,これらの集団が果たして「恐ろしい暴力」につながるかというのがポイントです。


(7)「本気で「善」を追求する集団,いまの世界を見てみるとどんな集団が当てはまるでしょうか?」

ということですが、私は新聞、ニュースはほとんど見ないので、あまり詳しくは挙げられないのですが、過激なので言えば、オウムやイスラム原理主義、ソフトなので言えば、国境無き医師団、中坊公平ら弁護士集団、なんかがあるのではないでしょうか、このあたりに関しては詳しくないのであまり深くはコメント出来ません、


では次に未来研での私の態度についての李徴さんのコメントに対する返信です、

とは言ってもあのクラブでは何回か衝突をしたので、具体的にどのときのことについてかを書いていただけると私も答えやすいです、上のコメントではどのときの私のどんな対応かが明らかにされていないので詳細なコメントがしにくいです、要望があらば、どのときにどの人が気に食わなかったかも詳細にお答えしたいと思います、とりあえず、上のコメントから言える返信をしたいと思います、


★善を追求する集団にオウムやイスラム原理主義者を持ってくるあたり,かなり恣意的なものを感じます(笑)私が見たところ,オウム真理教は「善」ではなく「真理」を追求する集団に見えます。「真理」のためには殺人も厭わないと。彼らが数々の「悪行」を「善行」ととらえていたのかどうかはわかりません。「真理」のための行為だとは考えていたでしょうが。

正直に言いますと,具体的な事例をあげることは出来ません。クラブだけでなく樂さんのホムピィでの発言なども含めたイメージです。

それから,なぜ私は敢えて樂さんが不愉快になるであろう発言をしたのか,その辺の理由も簡単に書いておきたいと思います。

要するに,私は樂さんのクラブへの復帰を望んでいるのです。樂さんの意見は非常に面白い。漫然と流れる思考に「待った」をかけてくれます。私は基本的に呉智英氏のような思考方法は好みなのです。

ただ,あそこで議論を楽しむにはそれなりの工夫が必要だと思います。樂さんは自分は「知者」だと自負しているようですが,「知者」であるならば,どうしたら他人から上手く言葉を引き出せるかとか,反応が多く返ってくる言葉選びだとか,色々と工夫が出来ると思うのですが,いかが?


(8)私は感情が書き込みに表れやすいタイプです、大体私が攻撃しようと意図したときは、棘のある文章を書いています、そのときは、敢えて人を試す態度や、小バカにする態度など、読んでいてかなりわかりやすい態度をとっていると思います、

ここで宣言しますが、私はいわゆる善人ではありません、気に入らない人間は叩き、私の美学に反する者を心おきなく嫌い、私に攻撃を加える者に対しては全力で復讐を試みる、そんな攻撃性を持った人間です、当然他人から嫌われることは承知の上、そしてそういう生き方に「潔さ」を見出している人間です、嫌いな人間がいたら、大人的にエレガントに無視するのではなく、「私は貴方が嫌いです」と本人に真っ向から宣言したいタイプの人間です、この「脱善人宣言」をこの場でしておきます、


これはあまり本筋の議論に関係しないのですが、一応書かせて頂きます、「赤ん坊の笑顔」は無邪気であると同時に、「無善気」です、悪いことでもなければ、善いことでもない、その意味で赤ん坊は「純粋」と言えると思います、


★樂さんの言う「善人」とは何でしょう,と絡みたくなりましたが,論点がどんどんずれていくのでやめておきます(笑)ちなみに私も自分のことを善人だとは思っていません。でも悪人とも言い難い。
「善人なおもて往生をとぐ,況や悪人をや」なんて言葉が『歎異抄』にでてきます。「善人だって極楽浄土に行けるんだ。ましてや悪人ならなおさらでしょう」という意味です。親鸞も樂さんと同じく「善人」という言葉にあまり良い意味を見いだしていなかったのかもしれませんね。

赤ん坊の笑顔は善でも悪でもなく純粋であると言うことですが,ここで言う「善」とは「悪」とは「純粋」とは何でしょう,と絡みたくなりましたが,私の頭がついていけなくなる危険性があるので封印します(笑)


(9)「善い行為」の「光速」の比喩は見事です、ただ李徴さんの

「「我々は善を行っているのだ」ではなく,「善を目指していこう」ということ。
私はそういうのをイメージしています。」

についてですが、これはある種のジレンマを抱えていると思います、「善いこと」を目指す人は少なくとも自分の思っている「善いこと」をするはずです、そして「善いこと」をしているときには、少なくとも「善いこと」をしていると思っているはずです、善いことをしようと意思して、善くないことをしていると思うということは意思の矛盾です、善いことをしようと目指す人は、自分の思う善いことをする、そしてその行為の最中は「善いことをしていると思っている」のではないでしょうか?


★人は自分が善を行っているという確信を得られぬまま,その好意を行うのではないでしょうか。「善」だったらいいな〜と。つまり,「善」は非常にとらえがたきものであり,「謙虚」とセットになっている可能性もある。 つまり,私はその行為の最中「善いことをしている」と思ってはいないと考えます。これが「善」ならいいな〜です。


(10)と迫ったら少し意地悪かもしれません、私なりに李徴さんの「言わんとすること」を解釈してみます、まず前提として「絶対的に善い行為は存在しない」ということがあります、つまりどんな善い行為でも、どこかに少しの「悪」が混入している、この善い行為の中に含まれる「悪」に対して敏感でありつつ、常に「自分はもしかしたら善いことをしていないのではないのだろうか」と常に内省し続ける態度を大切にしていこう、そしてそういうのを目指している、というようなことを言いたかったのではないかと思っています、

ではそろそろ上の私のコメントの解体、そして問題の複雑さにメスを入れて行きたいと思います、


★いえいえ,イジワルではありませんよ。
なにしろ「善」というとらえどころのないものについて議論しているのですから。「とらえどころのないものを掲げて国家の方針を決めるなど噴飯」の一言で済まされるような問題を議論しているのですから。

解釈ありがとうございます。
ただその前提は少し違う。「絶対的に善い行為は存在しない」というのは「絶対的に善い行為が存在する」というのと同じ次元の話です。私のイメージしているのは「絶対的に善い行為が存在しているかもしれない」くらいの可能性を残したものです。可能性があるからこそそれを目標に据えることができるのです。


(11)上の私のコメントはほとんど最初の前提「善いこととは、主観的に善いことである」に基づくものです、しかし「善」をそういう「相対的価値観」のみで判断してしまってよいものなのか?
この「善相対主義(と呼ぶことにします)」を論駁することはとりあえず不可能だと思います、しかし例えばAさんが「ユダヤ人を殺すのは善いことだ」と主張し、Bさんが「ユダヤ人を殺すのを止めることは善いことだ」と主張したとします、このとき「善相対主義」に従えば、AさんはAさんなりに「善いこと」を主張し、BさんはBさんなりに「善いこと」を主張しているということになります、しかし、もしかしたらどちらかの「善」は本当は「善」ではないのではないだろうか?、善相対主義のように個人の心理には還元できない善悪というものが存在してるとは考えられないだろうか?個人の心理とは独立の「本当に善いこと」というものが存在しているとは考えられないだろうか?



(12)イメージとしては、「人として生きるべき道」というようなものが実は存在していて、それに沿う生き方のみが「善い生き方」であって、それに沿わない生き方というのは、たとえ本人が「これが善い生き方なのだ!」と言っても、実は善くない生き方だということが考えられないだろうか?

この「真の善が存在する」という思想、これを「真善主義」と呼ぶことにします、これは丁度「善相対主義」と対立、拮抗の関係にあります、
上の例えでは、AさんとBさんの主張は反発しあっています、善相対主義に従えば、AさんはAさんなりに「善いこと」を主張しているのであり、BさんはBさんなりに「善いこと」を主張していることになります、しかし真善主義に従えばAさんとBさんのどちらかの主張は間違っていて、どちらかの主張は正しいということになります、つまり、Aさんの「ユダヤ人を殺すのは善いことだ」という主張が実は正しくて、Bさんの「ユダヤ人を殺すのを止めることは善いことだ」という主張が実は間違っているか、その逆で、実はAさんの主張は実は間違っていて、Bさんの主張が実は正しい、という思想です、



(13)そしてもう一つ押さえておきたい思想があります、私が勝手に「広善主義」と呼びますが、「善」の重さを量る指標を、社会の大きさで計ろうという思想です、例えば家族にとって「善いこと」より、地域にとって「善いこと」の方がより価値のある「善いこと」であり、地域にとって「善いこと」より、国にとって「善いこと」の方がより価値のある「善いこと」であり、国にとって「善いこと」より、世界にとって「善いこと」の方がより価値のある「善いこと」である、という思想、上のAさんとBさんの例えで言えば、AさんはAさんなりに善いことを主張しているのだが、ユダヤ人にとっては害、しかしBさんの主張する善いことは、ユダヤ人にとっても有益、このAさんとBさんの「善いこと」を天秤にかけて、Bさんの方がより多くの人間に貢献する主張だからBさんの「善いこと」の方がAさんの「善いこと」より、より価値のある「善いこと」という思想を「広善主義」と呼ぶことにします、

★何を「善」とするかを3つに分類してくれましたが,みごとです。
(11)の善相対主義,(12)の真善主義,(13)の広善主義,非常にわかりやすい分析です。

さて,ここで私が(4)で書いたレスを思い出していただきたい。
樂さんは「善悪」と「利害」を混同しているのではないかと。
相対主義と真善主義は微妙なところですが,広善主義にいたっては,ほとんど利害の話になっています。

(14)そしてそれぞれの思想の欠点を挙げていきたいと思います
まず「善相対主義」の欠点ですが、たとえどんな反社会的な「善」を相手が掲げようとも、「何が善いことかは人それぞれ」と切り捨てられ、尚且つ相手の「善」が「善」であるということを認めなければならないということです、相手が「私にとって、人を殺すことは善いことだ」と主張しても、自分が善相対主義を掲げるのならば、相手の「善」が間違っていると反論できないということです、

次に「真善主義」の欠点ですが、「独善的価値観」に陥りやすいという特徴があります、自分が主張する「善いこと」ことこそが「本当に善いこと」であり、相手の主張する「善いこと」は「実は善いことではない」と、自分こそ正しいのだという思想に陥りやすいという欠点が挙げられます
この思想の恐ろしさは、もはや言うまでもないと思います、



(15)そして「広善主義」の欠点ですが、これは大きな社会の「善」の前に、小さな社会の「利益」が無視されてしまう恐れがあるということです、100人の人間のために1人の人間が犠牲になるという事態を誘発しかねない思想というということです、

ではこの3つの思想を踏まえて今回の議論を振り返ってみたいと思います、

まず李徴さんの言う「善」を分析したいと思います、

最初の「日本には普通じゃない国になってほしい」の書き込みで李徴さんは、「多分世界中の国を敵に回すことになる」と言っていました、しかし世界中の国を敵に回す「善」ということは、少なくとも世界の国のどの国かが「損」をする、もしくは「害」になるような、「善」を想定しているということになります、まずこの時点で「広善主義」の最も広い善、「世界中のどの国にも利益になるような善」ではないということになります、そうでなければ「妬む」という仕方以外で世界中の反感を買うという事態は考えにくいからです、



(16)しかし広善主義の中で、一番大きな善を李徴さんが想定していないという事態もまた同時に考えにくいです、書き間違えかな?

そして李徴さんの

「国家という組織にとって,道義とか倫理などの言葉は外交で利用するだけの言葉で,住む世界が違う言葉です。「道義を大切にする国家」は「偽装結婚している同性愛者」のようなもの。

という発言から、国家は基本的には「善」を追及していない組織だということを言っているように思えます、しかし、相対善主義に従えばAという国はAという国にとっての「善いこと」、Bという国はBという国にとっての「善いこと」があります、そして広善主義に従えばAという国に利益になることは、Aという国にとって善いこと、Bという国に利益になることは、Bという国にとって善いこととなります※相対善主義と広善主義は必ずしも反発するというわけではない。


★私は小学生の時に「概念」という言葉の意味が分からなくてずいぶん苦労しました。辞書を引けば引くほどわからない。「概念は外延と内包に分けられる」という説明をみて,解ったような解らないようないや〜な気分になっていたものです。

ちなみに概念の内包とは属性・性質のようなもので,外延とはそれが適用される事物の範囲を指します。椅子を例に挙げると,内包は「人が座るもの」,外延は「長椅子」「ソファー」「揺り椅子」「ベンチ」などになります。トータルの概念としては「椅子とは人が座るものであり,長椅子・ソファー・揺り椅子・ベンチなどがある」という感じになるでしょうか。

では,「善」の概念は一体どうなるでしょう。
「善」とは一体何か,これが内包。
「善」にはどんなものがあるか,これが外延。

広善主義の「内包」は「善」の「内包」ではなく,ほとんど「利益」の「内包」になっているような気がします。
(15)における私の「善」の分析にしても,樂さんがイメージしてるのは国益では?
私が多くの国を敵に回すかもしれないと思う理由は,他国の国益に反するということではなく,「宗教」的な理由で「我こそが善」と思っている国が多いというのが1つの理由です。ちなみに共産主義も「宗教」のようなものです。

その後の分析も,「善」ではなく「国益」の話をしているようです。


(17)しかし、こういった意味での「善」は李徴さんは想定していないように思えます、また李徴さんは、

「インターネットが発達している現在,案外世界中に散らばる「善」を希求する人々を味方につけることができるかもしれない。」

とも言いいました、これは国境を越えた「善行」というものが存在するということを前提とした発言だと思います、つまり普遍的な「本当の善」が存在しているとも解釈可能だと思います、

このような理由から、李徴さんの想定している「善」は、「真善主義的な善」ではないかと推測されます、国境を越えた人として生きるべき道というものが存在していて、それに沿った行為こそ「善いこと」だというような思想に近いと思います、

対して私はアウシュビッツ、魔女狩、十字軍の例えから、「真善主義」の欠点である「独善的価値観」に陥る危険性を指摘しました、


★そう,私も今回樂さんが分析した所にもとづき色々考えましたが,私の想定しているのは「真善主義的な善」です。


(18)それに対して李徴さんからは、「善を追求することと、恐ろしい暴力との間には必然的因果関係は無い」というような趣旨の指摘をして頂きました、これに対しては上で返事を書かせて頂きました、とりあえず李徴さんの「善」を3つの思想から見てみるとこういうことになると思います、


では次に「善いこと」を目指した国家は運営可能か?についてもう少し考えてみたいと思います、



(19)まずここで言われる「善いこと」は、単に日本の利益になるゆえに日本にとって善いこと、というような狭い広善主義ではなく、広善主義の「世界にとって善いこと」、あるいは真善主義の「本当に善いこと」のことだと思います、しかし「広善主義」を掲げたのならば、「世界という大きな社会」に利益になること、そこまで行かなくとも、日本という国より大きな社会にとって利益になることをしなければなりません、しかし、シビアなのが、「見返りを求めてはならない」ということです、「見返り」を求めた瞬間、それは利己主義に陥り道徳的という意味での、善いことではなくなります、単に自国にとって善いことをする、狭い広善主義に陥ります、

しかし「見返りを求める」ということは、人間としてごく自然なことではないだろうか?


★「善いこと」を目指した国家は運営可能か?
これについては私にとって樂さんは援軍になります。普通は「国家が善を指針にするなどあり得ない」との反論が来る所ですが,樂さんはいとも簡単にこれを受け入れてくれ,それを前提として,「しかし,善を指針にした国家は危険」との議論を展開してくれました。

で,広善主義については今まで指摘してきたように,それは善ではなく国益です。

(20)あと一点、日本が損をせずに、日本より大きな社会に貢献できる場合は「特に善いことをしたくない国民」も納得できるのでしょうが、日本より大きな社会に対して貢献する際に、日本に負担がかかった場合、その場合は「特に善いことをしたくない国民」は納得出来ません、しかも「見返りは求めてはならない」、この場合、広善主義の欠点である、大きな社会の「善」に小さな社会(特に善いことをしたくない国民達)が犠牲になるという事態が発生してしまうのですが、この事態をどう克服するのか?

とりあえず問題点を2点提示しておきます。

結構長い文章になってしまいました、さらに深い議論になることを楽しみにしています。


★これは国家の本質ですから仕方がないですね。
より多くの国民の利益のためなら,少数の国民は不利益を被っても仕方がない。
善についても同じで,善を追求するという大きな方針があるのならば,少数の国民は不利益を被っても仕方がない。

私はいまだ善とは何かはっきりいうことが出来ませんが,仮に他国の難民を保護することだとしましょう。難民を1万人引き受ける。そうなると難民収容施設の付近住民は何らかの不利益を被るかもしれない。しかし,それは甘んじて受けとめてもらうしかない。そんな感じです。

要するに,納得出来ない国民が出るのはどんなシステムにした所で同じなのです。克服はできません。補助金を出すなどある種の妥協は可能でしょうが。


(21)追記、

とりあえず李徴さんがこの議論をマイフレ限定の場所に移した真意は、私には不明なのですが、もしよかったらこの議論をそのまま、誰でも閲覧可能な日記に移動しませんか?

理由はおそらく「善」について多くの人間に閲覧してもらうだけの価値のある議論となりうると思うのと、私はこんなやんちゃ坊主ですけど、こういう書き込みを楽しみにしててくれてるファンもいますので(笑)


ご要望にお応えして,閲覧可能な日記に移します。
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