樂さんに答えます

樂さん,長文投稿ありがとうございます。
こちらでゆっくりお返事したいと思います。

未来研,入ってみました。いろんな意味で面白そうなので。最近ちょこちょこ投稿してますが,わりとネガティブな話題が多いので,ちょっと明るい話題も入れた方が良いかなとただいま反省中です(笑)

※以下,樂さんのコメントの引用は青文字です


正直に申し上げますと、本気で「善」を追求している集団は遠目に見ているとかなり危険です、これはあの未来研にも言えるのですが、とにかく自分が正しい行為をしているというすさまじい思い込みから、ときに恐ろしい暴力を振るうことがあります、善いことをすることは善い事であって、悪ではない、だから「自分は正しいのだ」と、そして「自分が正しい」という思い込みから、自分の定義する悪を排除しようと、悪魔的な暴力を振るうことがあるのです、アウシュビッツユダヤ人狩、魔女狩り、十字軍の大遠征、どれもやってる本人は「自分は正しい」のです、やってる本人は「正義の味方」「善いこと」なのです、ここまで極端な例を挙げなくとも、例えばあの未来研でも、異常犯罪者に対して「裁判なんかしなくとも死刑にすべきだ」という趣旨の発言をする方などいらっしゃいました、

本気で「善」を追求する集団,いまの世界を見てみるとどんな集団が当てはまるでしょうか?マザーテレサをシンボルとするような宗教的な集団,国境無き医師団,中越地震のボランティアなどなど色々ありそうです。
どれもこれもときに恐ろしい暴力を振るいそうな危ない団体ですね。
というのは冗談で,もう一度良く考えてみて下さい。
樂さんが例に挙げたケースは,「善」を追求していたから恐ろしい暴力を振るう結果になったのですか?ナチスは善を追求したためにユダヤ人を虐殺することになったのでしょうか?
「善を追求する」→「恐ろしい暴力」,ここに明確な因果関係はありますか?

根本にあるのは樂さんの好悪だと思います。
「善」など口に出すヤツはいけ好かないと。
で,それなりの説得力を持たせるために,
アウシュビッツなどを持ち出してみた。
違いますか?


話を少しそらしますが、あのクラブには異常者を社会から抹殺しようとする倫理センスの欠如した病人が何人かいらしゃいます、人間とはどういうものかをよく考えもせずに、自分を真剣に省みることもせずに、ただみんな(マジョリティ)と同じように感じ同じように考えている、そして自分はいつも正しいと思っている、「無脳症的善人病」という病気の患者さんがいらっしゃいます、話がそれました、

善いことをしているという思い込みはすさまじく恐ろしい、妙な言い回しですが、善いことをしていると思った瞬間に、それは善いことでなくなる、ドロドロと汚れてきて、頭の悪い怪力トロルのように、どうしようもなくなる、特に集団レベルで「善いこと」をしていると思い込んだときが、これはもうヤバイ、歯止めが利かない、

これは個人、集団を通じて言えることですが、自分が「善いこと」をしていると思っているとき、自分が「正しいこと」をしていると思っているとき、自分のしていることを省みる能力、内省能力が極端に低下するような気がします、これは個人レベルのときより、集団レベルのときの方が
この傾向が強いと思われます、


あのクラブにおける衝突は少しばかり見ていました。
樂さんの憤りもわかる部分はあります。
「君も私くらいの年になればわかる」みたいな発言をしている人もいましたね。あれでは議論にならない。
それから,議論をやめることにより,「俺は大人だ」と自己満足する人もいるようです。中途半端な議論の放棄も気になる所。

ただ,樂さんの姿勢にも問題があると私は感じていました。

僕は異質です。
僕は皆さんの鏡です。
異質な僕が出した問いに答えることによりあなた方は自分自身を見ることになります。
さあ,僕の異質な問いにどう答えますか?


あそこでの樂さんの発言って,こんなイメージがありました。
自分はすでにある答えを持っているけど敢えて他人を試している感じ。
人を試す物言いは,人を見下している感じがするものですよ。
本当に人の意見を聞きたいならば,答えやすい問いかけを行った方がいいと思います。

善いことをしていると思った瞬間に、それは善いことでなくなる

同意します。
「善」というのは「光速」に似ているかも知れません。
光速に近づこうとしても決して光速には達しない。
それでも人は光速に近づこうと努力します。

「我々は善を行っているのだ」ではなく,「善を目指していこう」ということ。
私はそういうのをイメージしています。

特に集団レベルで「善いこと」をしていると思い込んだときが、これはもうヤバイ、歯止めが利かない、

集団だとお互いにフォローし合うことにより思想がより強固になりますね。少し疑問が湧いても,ちょっと弱気になっても,周りの人が「正しい」というのだから正しいのだろうと。他人から批判されようとも,集団を形成していればその考えはそうそう変えない。


この世に「絶対的に善い具体的な行動」は存在しまないと思われます、善いことをしようという意思は、無条件に善いと思われますが、なにか具体的に行動を起こしたらそれは「絶対的に善いこと」ではなくなります、私達が善いことをしようと意図して出来るのは、「相対的に善いこと」、つまり、「比較的善いこと」、「だいたい善いこと」と言っても過言ではありません、これがどういうことかというと、行為は善い面と悪い面を併せ持つということです、人間何か善いことを
しようと思っても、そこに何か小さな悪が混ざっている、逆にどんな悪行でも、そこには少しの善いことが混ざっている、物事の善悪とはそういう混沌としたあり方をしています、だから倫理はややこしい(だから面白い)


そう,私も絶対的に善いことなどこの世に存在しないと思います。
ひょっとしたらあるかも知れないけど(赤ちゃんの笑顔とか)。

「相対的に善いこと」にはさらに「誰にとって善いことか」という問題もありますね。例えば,アメリカのイラク攻撃にしても,アメリカに殺された人にとっては悪いことでしょうが,今までサダム・フセインに虐げられ今回生き残った人にしてみれば善いことかも知れません。


李徴さんの国家認識についてですが、

(国家とは「良いこと」をすることを目的とした組織ではありません。普通の国家は「良い」「悪い」ではなく自国つまり国民にとって利益となるかどうかを基準にして動きます。)

ですが、これは私もそう思います、ただここで言われる国民の利益「国益」ですが、狭義の意味では、お金や安全や物資、食料、土地、資源、技術、にとどまるのでしょうが、広義の意味では、「国民の道徳的満足感」も国益に含まれるのではないかと思います、善いことをするのは善い人にとっては気持ちのいいことです、そしてこれは結構普通な感覚だと思います、この「善いことをする時の気持ちよさ」も広義の国益に含まれるのではないかと思われます、ただ、中には「特に善いことなんかしたくない人」もいます、国家レベルで税金を使って何か善いことをしたのならば、そういった「特に善いことなんかしたくない人」の意思は尊重されていないということは忘れてはならないと思います、


問題はここですね。
果たして国家というものが「善いこと」を目指した運営ができるのか。
私は可能だと思っています。
いまの国際社会を見ると,我々は「善いこと」をしているんだとアピールしつつ国益最優先で動く国家ばかりです。「善いこと」などみじんも考えていない。
(ちなみにここで言う国益とは樂さんが言うところの狭義の国益です。)

国家にとって大切なのは国益ですから,もちろんこれはしっかり確保する必要がある。しかし,「善いこと」を志向すると,必ず国益が損なわれるのかというと,そうとは限らない。
「善いこと」を希求し,その思いを自国民をはじめ世界中の人が受け取った結果,非常に大きな国益(広義の国益)となる可能性もあるのではないでしょうか。
もっとも人により「善いこと」を測る物差しが違うので,ある程度共通の認識を持つためにはそれなりの準備(教育)などが必要となってくるでしょうが。


最後に、インターネットの発達した現在、世界中の「善」を見方に出来るかもしれない、ということですが、これは多分李徴さんが思うような意味では可能性はあると思います、日本が「善い
ことをしよう!」と立ち上がったのならば、世界中の善い人が手を叩いて歓迎する可能性は無いことはないと思います、

しかし同時に世界中の反感も免れないと思います、特に貧しい国の日の当たらない人達の反感、日本というのは世界でも稀にみる裕福な国です、国民のほとんどが健康で文化的な最低限度の生活を保障されています、モノが溢れ、食べ物が溢れ、さらに裕福になれるチャンスに溢れている国です、この恵まれた国の人間が「善いことをしたい」といったところで、今日生きるか死ぬかの生活をしている貧しい人間からしてみれば、人によってはかなりムカつくと思います、「善いことをしたいなんて言えるのは、裕福だからだ」と、これはこのムカついている人間が卑小なのではなく、人間とはそういうものだと思います、

上のようなことを考えると、私は善を追求する異常な国より、ドライに利益を計算、追及している「普通の国」であってほしいなと思います。



「善」を希求する国家が「善」を希求する人々を味方につける。
いまの世の中ならきっと可能です。
もちろん反発もあるでしょうが,今現在すでに日本はいろんな国から批判や妨害を受けてますから,大した問題じゃあありません。アメリカが本気でつぶしにかかってきたらやばいけど。

貧しい国の独裁者は不愉快に思うかも知れません。
でも,貧しい国の貧しい人はインターネットなどできないし,世界の情報に触れることはほとんど無いので,日本が何をしようが興味はないでしょう。

私は善を追求する異常な国より、ドライに利益を計算、追及している「普通の国」であってほしい

美人だけど性格が悪い女性とブスだけど性格が良い女性,どっちがイイ?
という設問にちょっと似ているんだけど,美人は性格が悪く,ブスは性格が良いとは限らない。両者の親和性はそれほど高くはない,というか無い。
「善を追求する国」と「国益を追求するドライな国」も同様で,
「善を追求した結果それが国益につながる」こともあれば,
国益を追求しただけなのに世界中の人々に喜ばれる結果になった」と言うこともあり得る。

要するに,私が言いたいのは,国益をおろそかにすれば,
弱肉強食のこの世界で生きていくことはできないが,
本気で「善いこと」を希求する国があってもいいんじゃないかと言うことです。
そして,それは必ずしも国益に反しないと。
で,日本ならばもしかしてそれができるのではないかと期待・自負・妄想しているのです。


ちなみに,今回のテーマ,実は樂さんを誘ってました(笑)