小学生殺人事件

最初このニュースを聞いたとき驚いたのはその方法です。カッターナイフで頸動脈を切るという殺人としては非常に合理的な方法が用いられていました。さらに西日本新聞によると,手首にも傷があったという。用意周到な殺人です。動脈という人間の弱点に対する知識にも驚かされました。

これから,マスコミではネットの持つ危険性が採り上げられ,ネットでは逆にマスコミのそういった取って付けたような報道に反発が出てくるでしょう。

今回の事件では2つの危険要因が見て取れます。
1つはカッター,もう1つがネットです。

前者のカッターの危険性について議論できるのは,事故の場合のみです。事件の場合にはその危険性をどうこう言っても意味はありません。
小学生がカッターを持てないようにした所で,事件が無くなることはないでしょう。

さて,後者のネットが問題です。
今回の事件ではネットが大きな役割を果たしているのは間違いのないことです。ネットにより,加害者少女の自意識が肥大してしまったことが1つ,ネット掲示板が自分の城であるという感覚を持ってしまったが為にそれを汚されることが許せなかったというのが1つ,そして,ネットにより,より多くのアンダーグラウンド情報を小学生が得てしまったことが1つです。
※自意識の肥大についてはここをクリック

ネットが悪いのではない,それを利用する人の問題であると主張する人もいるでしょう。これはたしかに正論です。

『ボウリング・フォー・コロンパイン』という映画があります。アメリカの銃社会に警鐘を鳴らすドキュメンタリー映画です。この映画でとくに興味深かったのはカナダとアメリカの対比です。カナダもアメリカと同様,銃の保有率は高いのに,銃による犯罪が極端に低いとのこと。監督のマイケル・ムーアはその原因をアメリカ人の「おびえ」にあると推測します。アメリカには周りの人間が信じられなくなるような原罪がたくさんあるのです。インディアンの虐殺,アフリカ人の奴隷等々。

同じ道具を与えられても,人によって使い方が変わることを上記の映画も証明しています。それは事実でしょう。しかし,ネットと子供の場合にもそれが当てはまるでしょうか?大人でさえこのツールを制御しきれず,日々各所でトラブルが生じています。子供がこのツールを使うためには,より慎重な配慮がなされるべきなのでは?
ネットを利用している子供のほとんどが人を殺さないのは確かですが,
ネットの持つ禍々しい要素が徐々に子供に蓄積されていっているような気がします。

では,どのような対策を立てればいいのでしょうか?
子供にネチケットを教えるのももちろん大切です。しかし,そのネチケットという種を植え付けるには先ず畑を耕さなければいけません。どうやって畑を耕すか。これが今後の日本社会の課題となるでしょう。というか,課題になって欲しい。この事件を表層だけでとらえ終わりにして欲しくはないです。